千葉県の近代産業遺跡
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総覧未掲載
杉村楚人冠記念館 (旧杉村楚人冠邸)
我孫子市緑2-5-5
木造1
建築年 大正13年
設計者 下田 菊太郎
施工者
杉村楚人冠(本名 広太郎)は、明治末期から昭和前期に東京朝日新聞で活躍したジャーナリストです。
調査部や記事審査部の導入、新聞の縮刷版の発行、日刊写真新聞『アサヒグラフ』の企画、大学の新聞学科での講義など、日本初の試みを行った先進的な新聞人でした。
また、読みやすい文章に独特の皮肉とユーモアをちりばめた彼の随筆やコラムは、当時人気を博しただけでなく、戦後の文筆家にも影響を与えました。
楚人冠は手賀沼の風光を好み、明治45(1912)年に我孫子に別荘を買い求めています。その後、関東大震災で二子を失う不幸に遭ったのを機に一家で移住しました。
そしてこの地で、手賀沼の景観保護活動に取り組んだり、我孫子ゴルフ倶楽部の開設を町長に進言したりと我孫子の発展に尽力しました。
また、湖畔吟社という俳句結社を作って地元の人々と交流するなど、大きな足跡を残し、昭和20(1945)年に自宅で息を引きとりました。
記念館の建物は、楚人冠が我孫子に定住する時に建てられた母屋を利用しています。当時、建築界の異端児と目された 下田菊太郎 によって設計されました。
しかし、下田の建築に不満を持った楚人冠はたびたび改築を行い、さらに楚人冠の没後にも増築が行われています。記念館の整備にあたり、生前から使われていた部分は、
資料をもとに昭和4(1929)年頃の様子を再現しました。母屋のほか、離れの茶室、我孫子の名工佐藤鷹蔵が建てた現存する中では一番古い「澤の家」と呼ばれる離れ、そして蔵が
残っています。(以上パンフレットより)
(左の写真)大正11年に建てられた「澤の家」
明治45年に買い求めた最初の別荘の跡地に建てられています。母屋が完成して我孫子に移住するまで別荘として使われ、
完成後は楚人冠の母である澤の住まいとして使われました。