千葉県の近代産業遺跡
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旧村川堅固別荘
我孫子市寿2-27-9
木造1
建築年 昭和2〜3年
設計者 村川 堅固
施工者
この別荘を建てた村川堅固氏は西洋史の大家で晩年は東京大学名誉教授でした。
氏は大正4年にこの地を購入し、大正10年に旧我孫子本陣邸内にあった離れを購入・移築しました(現母屋)。
さらに朝鮮旅行の印象をもとにユニークな外観の銅版葺き、モザイク床の新館を昭和2〜3年にかけて建設しました。
「父は、手賀沼を一望でき朝夕富士を望める眺めと、今でもわずかながら湧き出る清水に魅せられて、
ここを選んだようです。」と子息の故堅太郎氏は語っていたようです。残念ながら現在では眼下に高い建物
が建ち眺望は遮られ湧水も枯れてしまいました。また、子息の堅太郎氏亡き後平成6年に大蔵省の所有に
なりましたが、平成13年に我孫子市が購入し毎日(月曜・年末年始を除く)一般開放されています。
<我孫子と白樺派>
北の鎌倉と呼ばれた我孫子は明治時代後半から大正時代にかけて利根川や手賀沼の景観に魅せられて
多くの文化人が来訪したり居住していました。柳田國男が少年時代を過ごした布佐には、文学仲間の島崎藤村や
田山花袋が来訪しています。嘉納治五郎は沼辺りに別荘を建て、「白樺派」の志賀直哉、柳宗悦、武者小路実篤
や陶工バーナード・リーチらが我孫子に一時移り住み、ジャーナリスト杉村楚人冠も後に在住しました。志賀直
哉は「和解」「暗夜航路」を執筆、柳宗悦は「民芸」思想を形成、武者小路実篤は「新しき村」を発会、バーナ
ート゜・リーチは作品を焼き、楚人冠は手賀沼や地元の風物をエッセイに残しました。柳田國男とその兄弟の
松岡鼎、井上通泰、松岡静雄、同映丘は布佐の名望家と協力して、日露戦争後に「布佐文庫」図書館を設立しました。
此処は歴史的にも古い土地 愛する我孫子をいつ迄も忘れまい (柳宗悦)
新館
新館内部
旧本陣から移築した母屋