千葉県の近代産業遺跡
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大房(たいぶさ)岬要塞跡
南房総市富浦町多田良
建設年 幕末〜昭和11年頃
大房岬要塞の歴史は古く、幕末にさかのぼります。江戸時代の末、黒船来襲に幕府はあわてて江戸の防衛のために各地に台場(要塞)
を建設しました。東京湾の入り口に当たる大房岬にも弘化4年(1847)に10挺の大筒が備えられました。このときの跡は土塁として残って
います。
明治20年代に入ると日清・日露戦役に備えて日本海軍は兵員の訓練に励み、艦砲射撃の演習場として大房岬が選ばれました。岬南面
に館山湾から発射された艦砲の砲弾跡が残っていますが、100年近く経過した現在では風化が激しく、しだいに消えつつあります。
昭和3年、陸軍は東京湾防衛のため、大房岬を買収し、要塞化する工事に着手しました。照明所と発電所はそのときに建設されました。
その後、昭和11年にワシントン軍縮会議の結果、解体処分となった巡洋戦艦「鞍馬」の艦砲(口径20cm)2門の砲塔が2基備えられ、1箇(個)大隊の兵士が
東京湾の防衛に当たりました。しかし、時代はすでに航空機の時代になり、実際に使われることもなく終戦を迎えました。(パンフレット「たいぶさ
探訪より」)
弾薬庫跡1
弾薬庫跡2
弾薬庫跡3
砲台跡
照明所跡1
照明所跡2
発電所跡