千葉県の近代産業遺跡

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風船爆弾
総覧未掲載

川光倉庫(旧陸軍気球連隊格納庫)
千葉市稲毛区作草部1-33-26
RC
建築年
設計者
施工者

陸軍気球連隊は昭和2年に創設されました。現在でも残るこの蒲鉾屋根の建物はスレート屋根 と分厚いコンクリートで出来ており、米倉庫として使われています。 戦時中はもう一棟、道路を隔てた向かい側に三角屋根の格納庫がありましたが、戦後解体され現在 では団地になっています。 千葉、習志野、松戸、市川各市には数多くの陸軍の施設がありましたが戦後は民間に払い下げられ 当時のことを知る人はほとんどいません。(崙書房「房総発見100」より一部引用)
さて、気球連隊ですが任務のひとつに風船爆弾がありました。風船の直径は約10メートルで、 楮(こうぞ)を原料とした和紙をコンニャクのりで幾層にも貼り合わせて気密性を持たせ、 水素ガスを詰めました。気球の下のゴンドラの部分には爆弾と自動高度調整装置がつけられ、 福島県いわき市勿来、茨城県北茨城市大津、千葉県一宮町の3ヶ所から昭和19年11月 から合計約9300個の風船爆弾が打ち上げられました。これらの気球は東京、大阪、京都などで 周辺地域の女学生らを動員して軍事機密として製造されました。翌20年4月上旬にはジット気流 が吹きやみ、水素ガスの補給も思うようにならず作戦は中止になりました。
打ち上げられた約9300個のうち、偏西風にのって285発がカナダとアメリカに落下し、 各地で山火事が発生したようです。終戦の年の5月5日にはアメリカのオレゴン州の森林公園で この風船爆弾が破裂し、ピクニックに来ていた子供5人と牧師夫人の6人が亡くなるという 痛ましい事故が起きました。余談ですが、作家の故向田邦子さんも女学生だった戦時中に風船爆弾の部品を作っていたと エッセイ集「父の詫び状」の中に書いています。
風船爆弾については下記の書物に詳しく記述されています。
  風船爆弾 純国産兵器「ふ号」の記録 吉野興一著 朝日新聞社刊

令和元年の一連の台風により屋根が破損したため、令和2年9月に解体されました。

川光倉庫1(旧陸軍気球連隊格納庫) 川光倉庫2(旧陸軍気球連隊格納庫)

戦時中の格納庫
風船爆弾(朝日新聞社刊より)