千葉県の近代産業遺跡
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地図(途中まで掘削した放水路)
利根川放水路(未完成)
我孫子市〜船橋市
RC
昭和14年〜昭和19年
江戸の町を水害から守ることを主な目的に現在の江戸川を流れていた利根川は関宿から東側に流路が変更されました(利根川東遷)。江戸時代の初めに行われたこの大事業は
60年余りにおよびましたが、この東遷により霞ヶ浦・印旛沼・手賀沼周辺は洪水の被害が多発しました。しかし、明治になるまで抜本的な対策は行われませんでした。
明治になるとオランダ人技術者ムルデルにより初めて利根川全域に及ぶ対策が立てられましたが、ムルデルの計画はあくまで「通常の洪水」対策で、明治29年・43年の2度の
大洪水で改訂せざるを得ませんでした。31年の年月と巨費を投じて昭和5年に工事は竣工しましたが、再び昭和10年・13年の2度の大洪水に見舞われました。
そこで利根川の途中から東京湾に流れる放水路が計画されました。放水路は狭隘部である茨城県布川・千葉県布佐の少し上流にある現我孫子市湖北から現船橋市宮本を結び、
利根川の流量の約三分の一を放水路に振り分ける計画でした。工事は昭和14年から開始されましたが戦局の悪化に伴い昭和19年に工事は休止され、平成17年11月9日に正式に工事中止が決定されました。
現在でも測量標は各地に残り、掘削した放水路の一部は千葉県立船橋高校のグラウンドとして使われており、放水路を跨ぐ橋梁として工事が進められた京成電鉄と国道14号線の共用橋の橋脚も
現存しています。
京成電鉄と国道14号の共用橋の橋脚
途中まで掘削した放水路 (現千葉県立船橋高校グラウンド)
上記に隣接した船橋工作所跡 (現国土交通省船橋防災センター)
昭和19年の船橋市の空中写真(国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスより)